小 説
中島哲也『告白』、李相日『怒り』、新海誠『君の名は。』など、錚々たる日本映画の名作をプロデュースしてきた川村元気。彼は同時にベストセラー作家でもあり、その小説「世界から猫が消えたなら」「億男」は映画化されてもいる。
小説を書くとき、映画化のことは考えない。むしろ、普段、映画を作っているからこそ、映画にしにくいものを小説にしている。
川村は以前、自作が映画化されたとき、そのように発言している。
そんな川村が、長編小説としては第4作となる「百花」を、自ら映画にするという。しかも初めてメガホンをとる。自作を原作に、長編監督としてデビューを飾る。
2017年から2018年にかけて「月刊文藝春秋」で連載されたこの小説は、レコード会社で働く男性・葛西泉が、母・百合子の認知症に向き合う物語。シングルマザーであった彼女は、かつて息子を棄て、出奔した過去がある。このわだかまりが、二人をある種、特殊な関係にしていることが読み進めるうちに解ってくる。後半では、姿をくらましていた間、百合子が送っていた秘密の生活が日記として綴られ、小説はひとつの氷解へと辿り着く。
封印していた記憶。彼方へ追いやった記憶。そして実際に忘却される記憶。
息子が母親の現在と過去を追跡するスタイルで紡がれるが、すべては二人それぞれの記憶をめぐる物語である。確かに、川村が述べているように、この小説もまた「映画にしにくい」。
川村は、映画プロデューサーとして、数々の小説に向き合ってきた。その川村が、プロデューサーとしてではなく、映画監督として、自身の小説に向き合う。では、彼は「映画にしにくい」自作に、いかに向き合ったか。
撮 影
ワンシーン=ワンカット。
映画『百花』は基本的にその手法で撮影されている。
つまり、ひとつのシーンを、一切カメラを割らずに撮影する。
芝居が始まったら、その場面が終わるまで、一台のカメラで追う。凝視することもあれば、人物もカメラも移動することもある。とにかく、映像は途切れずに、継続するのだ。
百合子の記憶の混濁と、意識の迷走が、作品の主題のひとつとしてある。そのありようを、ひとつづきの時間としておさめる。これは女優にとっても、映画の作り手にとっても、挑戦だ。演技が試されるし、映像が試される。
もちろん、息子、泉にとっても、呪縛されている子供時代の記憶がよみがえることがストーリー上、大きなうねりを呼ぶ。それをワンカットで捉えることは、大きなエモーションにつながる。
映画は時間を記録するメディアだ。演技を記録し、また、撮影行為そのものを記録する。それが映画だ。
川村元気は、映画というものが内蔵する原初の出発点に向き合っている。
ワンシーン=ワンカットは、当然のように緊張を強いる撮影行為だ。しかし、キャストの緊張、スタッフの緊張、そして初監督の緊張は、見事に調和し、撮影現場に、幸福な化学反応をもたらしている。
色 彩
小説「百花」の表紙は、単行本、文庫本いずれも、花々の写真とともに黄色く彩られている。
川村元気は、映画でも、黄色をキーカラーとした。
百合子は、過去においても、現在においても、一貫してイエローを基調とした服を纏っている。
この黄色の印象が、キャラクターのテーマカラーの領域を超えて、観る者の心象風景に触れてくるものがある。あるときは、やわらかく、あるときは、苛烈に。このやさしい色は、さまざまな感覚や感情を誘発する。理屈を超えて、感性に訴えかけてくる。
対して、泉は、主にパープルの服を着ている。あるときはブルー寄り、あるときはレッド寄り。青と赤の中間色としてのパープルは、息子の心情によって変化しているようにも映る。
また、葛西泉の妻、香織(長澤まさみ)が着用するのはアースカラー。グレーやベージュ、そしてときおり赤。百合子(黄色)と泉(パープル)を保護し、支えるような大らかさが、その色彩からは感じられる。
スタイリングは、伊賀大介。川村元気がこれまでも数多くのプロデュース作で組んできた、全幅の信頼を置くスタイリストである。キャラクターを解読し、映画全体を俯瞰して、衣裳を配置する名手。
川村と伊賀のコーディネートは、手法を超越して、インスピレーションとイマジネーションを喚起する。
花 火
映画のクライマックスとなる花火のシーンは、長野県の諏訪湖で撮影された。
花火大会でも知られる湖だが、本作のために、「半分の花火」が打ち上げられた。
映画のために、屋台が軒を連ね、湖畔は祭りの様相を呈していく。映画は、いつだって、手づくりの祭りだ。
グラデーションの美しいトワイライトから、いよいよ花火へ。湖面に映る花火。その光が、菅田将暉の顔面を照らす、目も眩むような美しい瞬間。
そこから一転、姿を消した母、百合子を探すべく走り廻る泉。ワンシーン=ワンカットの躍動感が冴えわたる。菅田将暉ならではの動物的反射みなぎる運動に、釘付けになる。
そして、溝口健二監督の名作『山椒大夫』からインスパイアされたという入水場面。
いよいよ泉のことが判別できなくなった百合子。その駄々っ子ぶりは、まるで少女。祭りの賑わいを歩くときも、息子と母ではなく、兄と妹のように振る舞っていた菅田将暉と原田美枝子だったが、ここでの百合子は完全に少女そのものと化し、この、記憶の逆行を描いた『百花』という映画のひとつの到達点となった。動揺と慟哭を抑制の中で弾けさせた菅田将暉の名演が、原田美枝子の解放を下支えする様に、涙を禁じ得ない。天才たちの格闘。この二人でなければ辿り着けない境地がそこにあった。
劇 場
小説「百花」と映画『百花』が最も異なる点。それは、主人公、葛西泉が勤務するレコード会社が手がけているシンガーの設定である。
小説では、若い女性であり、彼女自身が抱えるトラウマによって、その才能は発揮される一方、恋愛沙汰で、華々しいデビューは降下してしまう。そして、彼女を担当しているのは妻、香織だった。
映画では、ヴァーチャルヒューマン「KOE」として登場。泉も、その開発チームに加わっている。
何人ものアーティストの歌唱技術や、さまざまな記憶を搭載した「KOE」は、マージナルでジェンダーレスな可能性に満ちていたが、その成果は不確かなまま、「失敗」を示唆したまま、画面から姿を消す。
川村元気がここで選択した手法は、現代的であり、また映像的でもある。
とある映画館で撮影されたそのシーンでは、画面いっぱいにスクリーンに映し出された「KOE」が鎮座し、その手前に影絵のように開発チームの三人が佇み、会話していた。
衣服は揺れているが、様々なアーティストの「記憶」から生み出された「KOE」の表情は読み取れない。しかし、ヴァーチャルヒューマンは、わたしたちを見つめている。この劇場の中で。
「KOE」の登場はごくわずかだからこそ、この場面は、印象に残る。そして、これは映画にしかできない表現でもある。
記憶とは何か。生命とは何か。それが問われている。
東 京
2021年8月12日。原田美枝子がクランクアップした。
東京の撮影所。
菅田将暉は、その6日前に、池袋の映画館でクランクアップしていた。だから、本来なら、ここにいるはずはない。
しかし、菅田は、原田を労うために、やって来た。しかも、彼女を驚かすために、撮影所のスタジオ内でじっと隠れていた。
記憶を喪う百合子を演じることも、母親と記憶を共有できない泉を演じることも、どちらも大変なことである。そこには、通常の芝居とは違うやりとりが派生していたはずだ。
菅田将暉と原田美枝子は、カメラが回っているときも、カメラが回っていないときも、互いを思いやっていた。先輩後輩というよりも、親子というよりも、性差も年齢差もキャリアも関係のない、当たり前の戦友同士のようだった。
ワンシーン=ワンカット、しかも、初監督作。川村元気は場面によっては、かなりテイクを重ねることもあった。
主演二人も監督も、そこに妥協は一切なかった。
その夏の日、だからこその三人の笑顔があった。